第7話 帰る勇気の表紙画像

第7話 帰る勇気

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/11/1 📚 シリーズ: 星をつむぐ友禅 📝 2,176文字 ✅ 全年齢

あらすじ

搬入前日、藤原(71)が腰を痛め、当番が一人欠ける。 月乃(16)は残って穴を埋めようとする。 紗江(28)に止められ、「今日は帰ります」と言った瞬間、退部したいと言ってを叱られた記憶がよみがえる。 誰も責めず、皆で当番表を作り直す。友禅あるある、指の糊は最後まで残る。月乃は翌日、星を描くと決める。

本文

 搬入前日の夜、作業場の床には、額装する布と段ボール箱が並んでいた。

 月乃は当番表の前に立ち、紙の端を指で押さえていた。明日の欄には、藤原の名前がある。その横に、赤いペンで小さく線が引かれていた。

「腰をやってしまいましてな」

 藤原は椅子に深く腰かけ、困ったように笑った。いつもより背中が丸い。立とうとしただけで、眉間に細いしわが寄った。

「大したことはありません。少し休めば」

「大したこと、ありますよ」

 紗江が、すぐに言った。

 藤原は目を瞬いた。

「明日の搬入は、私が——」

「だめです」

 紗江の声は強くはなかった。けれど、作業台の上の糊置き道具よりも、はっきりそこに置かれた。

「会場まで運んで、立ちっぱなしで、帰ってからも片づけるんでしょう。今日は座っていてください」

 月乃は当番表を見つめた。

 藤原の名前が消える。ひとり欠ける。

 入口の案内。作品の見守り。ポーチの説明。会計の補助。交代の時間。

 紙の上の空いた場所が、黒い穴みたいに見えた。

「私、残ります」

 声が先に出た。

 紗江が月乃を見る。

「今日、ポーチの袋詰めも終わらせます。明日の当番も、長く入れます。藤原さんの分、私が——」

 言いながら、手のひらが冷たくなる。

 全部やります。

 口にしそうになった、その言葉の形だけで、胸の奥がぎゅっと縮んだ。

 体育館の白い壁が浮かぶ。

『人数が足りないんだから、抜けるな』

『自分だけ楽をするのか』

『辞めたいなんて、言うことじゃない』

 痛いと言ったときも、休みたいと言ったときも、空いた場所のことばかり言われた。

 月乃がいなくなった穴を、誰かが困る。そのことだけが、いつも自分より大きかった。

「月乃さん」

 紗江が、当番表の前まで来た。

「今日は、何時まで残るつもりですか?」

「……終わるまで」

「終わるまで、は時間ではありません」

 月乃は唇を閉じた。

 責められているわけではない。分かっているのに、背中が固くなる。

 紗江は赤いペンを取り、藤原の名前があった欄の横に、小さく空白をつくった。

「人が足りないときほど、誰か一人の『終わるまで』で埋めないほうがいいです」

 月乃は紙を見たまま、何も言えなかった。

「月乃さんは、明日、星を描く人でしょう」

 その言葉に、顔が上がった。

「入口に立つ時間も必要です。でも、一日中立ち続けたら、最後の一個に金彩を置く手がぶれます」

 紗江は、月乃の右手を見た。触れずに、そこにある指先だけを見る。

「展示会は、月乃さんが倒れずに終わることも大事です」

 月乃の喉が、ひどく狭くなった。

「でも……帰ったら」

 帰ったら、置いていくみたいになる。

 誰かが困っているのに、自分だけ。

 続きは声にならなかった。

 坂井が、会計の袋を閉じながら言った。

「当番表は、作り直せばいいのよ」

 能勢が、箱の中から小さな紙片を出した。

「私は午前だけなら座っていられます。値札の確認くらいはできます」

「私は午後、仕事のあとに寄れます」

 紗江がスマートフォンを見た。

「連絡します。来られない人には無理に頼みません。来られる時間だけ、聞きます」

 藤原が、申し訳なさそうに頭を下げかける。

「すみませんな。私が——」

「藤原さんも、謝らないでください」

 月乃の声だった。

 言ってから、月乃は目を見開いた。

 藤原も、少し驚いたように月乃を見た。

「腰が痛いなら、休む……のも、手順です」

 言葉の途中で頬が熱くなった。それでも、藤原はゆっくりとうなずいた。

「そうでしたな」

 誰かが笑った。からかう笑いではない。張っていた糸が、ふっとゆるむような、小さな笑いだった。

 紗江がペンを月乃へ差し出す。

「では、月乃さんの明日は。午前の入口案内、一時間。午後はポーチの説明を三十分。あとは?」

 月乃はペンを受け取った。

 紙の白さがまぶしい。

 今までなら、空いたところを全部塗りつぶしていた。自分の名前を、隙間なく書き込んでいた。

 けれど月乃は、当番表の端にある空欄を見た。

「……金彩を置く時間を、ください」

 紗江の目元がやわらかくなる。

「もちろんです」

 月乃は、自分の名前の横に時間を書いた。

 そのとき、指先に乾いた感触が引っかかった。

「あ」

 親指の腹に、白い糊が残っている。さっき洗ったはずなのに、爪のきわにまで入り込んでいた。

 月乃がこすっても、白い跡はなかなか落ちない。

「友禅らしさです」

 紗江が自分の指を見せた。人さし指の横にも、薄い白が残っている。

「糊は最後まで残ります」

 能勢が、ふっと笑う。

「急いで落とそうとしても、余計に手が荒れますよ」

 月乃は、白い指先を見た。

 残るものがある。

 無理をした記憶も、怖くて言えなかった言葉も、すぐには消えないのかもしれない。

 それでも明日、星を描く。

 月乃はペンを置き、皆の前で息を吸った。

「今日は帰ります」

 言った瞬間、胸の奥で何かが強く鳴った。

 叱られる、と身体が先に身構える。

 けれど、誰も眉をひそめなかった。

「気をつけて帰ってください」

 坂井が言った。

「明日、星を頼みますね」

 紗江が続ける。

 月乃は、ゆっくりとうなずいた。

 作業場の灯りを背にして戸を開ける。夜の空気は冷たく、糊の匂いがまだ指に残っていた。

 明日、星を描く。

 そのために帰るのだと、月乃は初めて自分に言えた。

ジャンル・タグ

タグなし

作品統計

👁️ 閲覧数: 1 👍 いいね: 0 📚 本棚登録: 0

作者について

津組セナ

👥 フォロワー: 1人

作者ページを見る