第7話 帰る勇気
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
搬入前日、藤原(71)が腰を痛め、当番が一人欠ける。 月乃(16)は残って穴を埋めようとする。 紗江(28)に止められ、「今日は帰ります」と言った瞬間、退部したいと言ってを叱られた記憶がよみがえる。 誰も責めず、皆で当番表を作り直す。友禅あるある、指の糊は最後まで残る。月乃は翌日、星を描くと決める。
本文
搬入前日の夜、作業場の床には、額装する布と段ボール箱が並んでいた。
月乃は当番表の前に立ち、紙の端を指で押さえていた。明日の欄には、藤原の名前がある。その横に、赤いペンで小さく線が引かれていた。
「腰をやってしまいましてな」
藤原は椅子に深く腰かけ、困ったように笑った。いつもより背中が丸い。立とうとしただけで、眉間に細いしわが寄った。
「大したことはありません。少し休めば」
「大したこと、ありますよ」
紗江が、すぐに言った。
藤原は目を瞬いた。
「明日の搬入は、私が——」
「だめです」
紗江の声は強くはなかった。けれど、作業台の上の糊置き道具よりも、はっきりそこに置かれた。
「会場まで運んで、立ちっぱなしで、帰ってからも片づけるんでしょう。今日は座っていてください」
月乃は当番表を見つめた。
藤原の名前が消える。ひとり欠ける。
入口の案内。作品の見守り。ポーチの説明。会計の補助。交代の時間。
紙の上の空いた場所が、黒い穴みたいに見えた。
「私、残ります」
声が先に出た。
紗江が月乃を見る。
「今日、ポーチの袋詰めも終わらせます。明日の当番も、長く入れます。藤原さんの分、私が——」
言いながら、手のひらが冷たくなる。
全部やります。
口にしそうになった、その言葉の形だけで、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
体育館の白い壁が浮かぶ。
『人数が足りないんだから、抜けるな』
『自分だけ楽をするのか』
『辞めたいなんて、言うことじゃない』
痛いと言ったときも、休みたいと言ったときも、空いた場所のことばかり言われた。
月乃がいなくなった穴を、誰かが困る。そのことだけが、いつも自分より大きかった。
「月乃さん」
紗江が、当番表の前まで来た。
「今日は、何時まで残るつもりですか?」
「……終わるまで」
「終わるまで、は時間ではありません」
月乃は唇を閉じた。
責められているわけではない。分かっているのに、背中が固くなる。
紗江は赤いペンを取り、藤原の名前があった欄の横に、小さく空白をつくった。
「人が足りないときほど、誰か一人の『終わるまで』で埋めないほうがいいです」
月乃は紙を見たまま、何も言えなかった。
「月乃さんは、明日、星を描く人でしょう」
その言葉に、顔が上がった。
「入口に立つ時間も必要です。でも、一日中立ち続けたら、最後の一個に金彩を置く手がぶれます」
紗江は、月乃の右手を見た。触れずに、そこにある指先だけを見る。
「展示会は、月乃さんが倒れずに終わることも大事です」
月乃の喉が、ひどく狭くなった。
「でも……帰ったら」
帰ったら、置いていくみたいになる。
誰かが困っているのに、自分だけ。
続きは声にならなかった。
坂井が、会計の袋を閉じながら言った。
「当番表は、作り直せばいいのよ」
能勢が、箱の中から小さな紙片を出した。
「私は午前だけなら座っていられます。値札の確認くらいはできます」
「私は午後、仕事のあとに寄れます」
紗江がスマートフォンを見た。
「連絡します。来られない人には無理に頼みません。来られる時間だけ、聞きます」
藤原が、申し訳なさそうに頭を下げかける。
「すみませんな。私が——」
「藤原さんも、謝らないでください」
月乃の声だった。
言ってから、月乃は目を見開いた。
藤原も、少し驚いたように月乃を見た。
「腰が痛いなら、休む……のも、手順です」
言葉の途中で頬が熱くなった。それでも、藤原はゆっくりとうなずいた。
「そうでしたな」
誰かが笑った。からかう笑いではない。張っていた糸が、ふっとゆるむような、小さな笑いだった。
紗江がペンを月乃へ差し出す。
「では、月乃さんの明日は。午前の入口案内、一時間。午後はポーチの説明を三十分。あとは?」
月乃はペンを受け取った。
紙の白さがまぶしい。
今までなら、空いたところを全部塗りつぶしていた。自分の名前を、隙間なく書き込んでいた。
けれど月乃は、当番表の端にある空欄を見た。
「……金彩を置く時間を、ください」
紗江の目元がやわらかくなる。
「もちろんです」
月乃は、自分の名前の横に時間を書いた。
そのとき、指先に乾いた感触が引っかかった。
「あ」
親指の腹に、白い糊が残っている。さっき洗ったはずなのに、爪のきわにまで入り込んでいた。
月乃がこすっても、白い跡はなかなか落ちない。
「友禅らしさです」
紗江が自分の指を見せた。人さし指の横にも、薄い白が残っている。
「糊は最後まで残ります」
能勢が、ふっと笑う。
「急いで落とそうとしても、余計に手が荒れますよ」
月乃は、白い指先を見た。
残るものがある。
無理をした記憶も、怖くて言えなかった言葉も、すぐには消えないのかもしれない。
それでも明日、星を描く。
月乃はペンを置き、皆の前で息を吸った。
「今日は帰ります」
言った瞬間、胸の奥で何かが強く鳴った。
叱られる、と身体が先に身構える。
けれど、誰も眉をひそめなかった。
「気をつけて帰ってください」
坂井が言った。
「明日、星を頼みますね」
紗江が続ける。
月乃は、ゆっくりとうなずいた。
作業場の灯りを背にして戸を開ける。夜の空気は冷たく、糊の匂いがまだ指に残っていた。
明日、星を描く。
そのために帰るのだと、月乃は初めて自分に言えた。