第三話「絵馬の裏側」
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
10年前の絵馬を拾った貴乃(16)は、世話役の藤代澄江(72)から、神社を手伝う若者が減ったと聞く。試験前なのに欠員の穴埋めを頼まれ、反射的に頷きかけた貴乃は、朔也(54)に予定を問われて初めて立ち止まる。試験後なら入れる、と答えると胸の奥が少しほどけた。絵馬の紐が絡むのは毎年の風物詩。読まれない絵馬は神様が先に読むという言い伝えの裏に、狐面の印があった。
本文
棚の下に落ちた絵馬は、掌にすっぽり収まるほど小さかった。
貴乃はしゃがみ込んだまま、それを拾い上げる。木の端は少し黒ずみ、指先に乾いた埃がついた。表には、雨に滲んだような薄い墨の跡が残っている。
「これ……」
裏返すと、隅に書かれた年号が目に入った。
10年前。
「まあ、それ」
背後から聞こえた柔らかな声に、貴乃は肩を揺らした。
藤代澄江が、竹箒を壁に立てかけながら近づいてくる。白髪をきちんとまとめた頭を少し傾け、貴乃の手元をのぞき込んだ。
「まだ残っていたのねえ」
社務所には、夕方の冷えた空気が入り込んでいた。窓の隙間で風が鳴り、机の上の書類の端が、かさ、と持ち上がる。線香の匂いと、古い木の匂いが鼻の奥に静かに残った。
「10年前の絵馬ですか?」
「ええ。あのころは、神社を手伝ってくれる若い人も、今よりずっといたのよ」
澄江は、絵馬掛けのほうへ目を向けた。
「祭礼の前になると、飾りを出す人、授与所に立つ人、掃除をする人。自然に集まったものだけれど」
声の最後に、わずかな息が混じった。
「今は、誰かが来られなくなると、残った人で穴を埋めるでしょう」
貴乃の指が、絵馬の紐を強くつまんだ。
穴を埋める。
その言葉だけで、胸の奥が狭くなる。
誰かが休めば、その分まで走る。誰かが具合を悪くすれば、代わりに声を出す。嫌だと言う暇もなく、できる人がやればいいと言われる。
絵馬の細い紐が、指に絡んだ。
「月城さん」
澄江が、申し訳なさそうに眉を下げた。
「来週ね、一人だけ都合が悪くなってしまって。試験前だと分かっているのだけれど、一日だけ、代わりをお願いできないかしら?」
「はい」
貴乃の口が、先に動いた。
言い終える前に、胸がぎゅっと縮む。
あ、と小さく息を漏らした。けれど、訂正の言葉は出てこない。断ったら困らせる。頼まれたのに断るのは、わがままだ。
そんな声が、もう自分の中に住みついている。
「月城さん」
低く、落ち着いた声だった。
帳面を抱えた朔也が、社務所の入口に立っていた。いつから聞いていたのか、表情は変わらない。ただ、急かすこともなく貴乃を見ている。
「その日は、予定がありますか?」
貴乃は顔を上げた。
予定。
喉が、ひどく乾いた。
「……試験前で」
声が小さくなる。絵馬の角が、掌に食い込む。
「勉強を、しないといけなくて」
言葉にした途端、謝らなければと思った。
けれど澄江は、すぐに頭を下げた。
「そうよね。ごめんなさい、無理を言ったわ」
「ちが……」
違う、と続けたかった。
謝らせたいわけではない。ただ、自分の試験を優先したいだけだ。そんな当たり前のことが、口にするとひどく大きな望みに思えた。
朔也が帳面を開く。
「試験後なら、入れますか?」
貴乃は息を止めた。
責める声はなかった。困ったようなため息も、期待を裏切ったような顔もない。
ただ、別の日を尋ねられただけだった。
「……試験後なら」
唇が震えた。貴乃は一度、ゆっくり息を吸う。
「試験後なら、入れます」
「分かりました。その日で調整しましょう」
朔也は帳面に何かを書き込んだ。
それだけだった。
それだけなのに、胸の奥で絡まっていたものが、少しだけほどける。
「ありがとうございます」
小さな声だった。
それでも、今度は自分で選んで出した声だった。
澄江が、ほっとしたように笑う。
「その絵馬の紐みたいね」
貴乃は視線を落とした。
いつの間にか、紐は指に二重に巻きついていた。
「絵馬の紐が絡むのは、毎年の風物詩なのよ。願いごとが多いほど、きれいには並ばないものだから」
貴乃は、爪を立てないように気をつけながら、結び目をゆっくり探った。
「読まれない絵馬はね、神様が先に読んでくださるんですって」
「神様が?」
「ええ。だから、誰にも言えなかった願いも、なくならないのよ」
紐が、するりとほどけた。
その下に隠れていた小さな印を見つけ、貴乃の手が止まる。
赤い狐面。
夕暮れの薄明かりの中で、その印だけが、かすかにこちらを見返しているようだった。