第四話「慣れた手、止まる足」
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
会計も案内も覚えた貴乃は、仕事をこなすだけになり、新鮮だった日々を失いかける。体育で見学を願い出る同級生を見て、羨ましさに目を伏せた。祭礼の列で足をひねった子が「大丈夫」と笑ったとき、軽傷でも走らされた自分の足がよみがえり、動けなくなる。湊は理由を聞かず、休憩所に温かい茶を置いた。石段で転ぶと厄が落ちるという言い伝えの残る石段のそばで、返納所の女性が御守を握り締めている。
本文
会計箱の引き出しを閉めると、硬貨が触れ合って、からんと乾いた音を立てた。
「500円、お預かりします。おつりです」
貴乃は相手の掌へ硬貨を置き、わずかに口角を上げて会釈した。それから、もう次の参拝客へ顔を向ける。
「御朱印はあちらです」
指先で社務所の方向を示し、相手の目を見て、そつのない笑みを浮かべる。
「絵馬は鳥居の横にございます」
今度は鳥居の脇へ視線だけを滑らせ、手のひらをそちらへ向ける。
「迷子の案内所は休憩所の奥です」
声は穏やかだった。けれど、表情にはほとんど変化がない。口が言葉を覚えていて、考えるより先に答えが出る。
「月城さん、本当に手際がいいわねえ」
藤代澄江が帳面を抱えたまま、やわらかく笑った。
「ありがとうございます」
笑い返したはずなのに、頬だけが動いた気がした。
最初は、玉砂利を踏む音も、紙垂が風に鳴る音も、知らない言葉みたいに新しかった。お守りの棚を拭くたび、色の違う紐を眺めた。帳面に日付を書くたび、今日が増えていくのが少し嬉しかった。
今は、人の列が伸びる前に釣り銭を足せる。誰かが困った顔をすれば、どこへ案内すればいいか分かる。できることが増えたはずなのに、胸の内側は、祭礼の太鼓より静かだった。
学校の体育の時間、貴乃は体育館の壁際で同級生の声を聞いた。
「先生、すみません。足、まだ痛くて。今日は見学でもいいですか?」
ジャージ姿の女子が、膝のあたりを押さえている。教師は一度だけ足元を見て、うなずいた。
「無理するな。座って見てなさい」
「ありがとうございます」
女子の肩から、ふっと力が抜けた。
それを見た友達が何も言わずに隣へ詰め、空いた場所をつくる。
窓から差し込んだ白い光が、床のワックスの上を細く伸びていた。光の中で、細かい埃がゆっくり舞っている。
貴乃は、自分の靴紐を見つめた。
ほどけかけているのに、結び直す気になれなかった。
中学の部活で、言ったことがある。
『怪我をしたから、休みたいです』
そう言ったら、顧問は鼻で笑った。
『その程度で休んでたら、社会じゃ通用しないぞ』
あのときは、痛いことよりも、休みたいと思った自分のほうが悪いような気がした。
羨ましい、と思った。
その言葉を、誰にも聞かれないように飲み込む。飲み込んだ喉の奥が、ひり、と熱かった。
祭礼の日、境内には提灯の明かりが連なっていた。甘酒の匂い、焼けた醤油の匂い、太鼓の腹に響く低い音。列を整える貴乃の耳に、急な声が刺さった。
「あっ」
飾りを運んでいた子が、石畳の端で足をひねった。白い足袋のつま先が止まり、肩が跳ねる。近くの大人が駆け寄ると、その子は顔をしかめたまま、急いで笑った。
「大丈夫です。歩けます」
大丈夫。
その一言で、貴乃の足元が遠くなった。
雨の校庭。泥を吸った靴下。足首に走る鈍い痛み。笛が鳴るたび、濡れた地面を蹴った感触。
『その程度で止まらない。』
手の中の案内板が、かた、と震えた。太鼓の音が近すぎる。息を吸っても、胸の奥まで入ってこない。目の前で人が動いているのに、声だけが水の底から聞こえるようだった。
「月城さん」
湊の声に、貴乃はゆっくり顔を上げた。
湊は何も聞かなかった。休憩所の長机へ湯呑みを置き、湯気の向こうから短く言う。
「ここ、空いてます」
それだけ残して、湊は列のほうへ戻っていった。
貴乃は椅子に座り、湯呑みを両手で包む。熱が、冷えきった指先にじわりと広がった。茶の香りを吸い込むと、喉の奥の固さが少しだけ緩む。
石段のそばでは、返納所の女性が立ち尽くしていた。薄いコートの胸元で、古い御守を強く握っている。伏せた睫毛が震え、白くなった指の関節だけが、提灯の明かりに浮かんだ。
この石段で転ぶと、厄が落ちる。そんな言い伝えが残っている。
貴乃は湯呑みの縁に唇をつけた。渋みのあとに、かすかな甘さが残った。