第五話「納められない御守」
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
返納所を任された貴乃は、亡夫の御守を手放せない佐伯文(68)に出会う。「納めたら忘れる気がする」と言う文に、決まりだけを告げようとした貴乃は、「ここで辞めたら将来逃げ癖がつく」と叱られた記憶に息を詰める。貴乃は、持ち帰ることも感謝して納めることも選べると伝えた。古札は夜に神様へ帰るという言い伝え。笑った文は、狐面の絵馬の主を知っていると言う。
本文
返納所の白い箱には、古い紙と布の匂いがあった。
雨に濡れた鞄の底で乾いたような御守。角の丸くなった札。何度も撫でられたらしい紐。貴乃は箱の脇に座り、差し出されるものを両手で受け取っていた。
「こちらへ、お納めください」
祭礼の提灯が揺れるたび、箱の中の金糸がかすかに光る。
人の波が途切れたころ、一人の女性が返納所の前で足を止めた。
灰色の髪を耳へかけ、薄いコートの胸元を押さえている。佐伯文は、何かを探るようにポーチの口へ指を入れた。
出てきた御守は、淡い紫だった。
布地は擦れ、房は少しほどけている。それでも文の手は、壊れ物を包むようにやさしかった。
「古いものでも、大丈夫ですか?」
「はい。お預かりできます」
貴乃は返納箱へ手を添えた。
お札や御守は、一年を目安に神社へ納める。役目を終えたものは、感謝して返す。覚えた通りの言葉が、口の中に並ぶ。
「納めたら」
文の指が、紫の御守をきゅっと握り直した。
「忘れる気がするの」
貴乃の唇が止まった。
文は御守を見たまま、小さく笑おうとした。けれど、目尻には細かな震えが残っている。
「夫がくれたんです。病院へ行く日にね。これを持っていれば大丈夫だって」
提灯の灯が、擦れた布を橙色に染めた。
「決まりでは、古い御守は……」
言いかけた瞬間、喉の奥がひどく狭くなった。
『ここで辞めたら、将来逃げ癖がつく』
濡れた土の匂いが鼻を刺す。
足首の痛みを隠したまま立った校庭。笛の音。顔をしかめると、もっと大きな声で返事をしろと言われた。
『嫌なことから逃げて、何が続けられるの?』
貴乃は膝の上で手を重ねた。指先が冷えている。
返納箱の中には、たくさんの御守が静かに積み重なっていた。誰かの無事を願った手。誰かを待った夜。もう会えない人の名前。
「……今日は」
息を吸う。
「持ち帰っても、いいと思います」
文がゆっくり顔を上げた。
「え?」
「納めるなら、ありがとうって思って納めてもいいです。でも、まだ一緒にいたいなら……今日、決めなくても」
声は少し掠れた。
それでも貴乃は、文の目から目をそらさなかった。
「持っていることが、悪いわけではないと思います」
文の指から、わずかに力が抜けた。
「選んでいいのね」
「はい」
「納めなきゃいけないって、決めて来たの。ずっと持っていたら、前へ進めないような気がして」
貴乃は首を横に振った。
「前へ進むことと、忘れることは……同じじゃないと思います」
言ってから、胸の奥が小さく揺れた。
文はしばらく御守を眺め、そっとポーチへ戻した。ファスナーを閉じる音が、夜の冷えた空気に短く響く。
「今日は連れて帰るわ」
「はい」
「もう少し、夫に話してからにする」
文の笑みは、今度はちゃんと目元まで届いていた。
境内の奥で、古札を納める箱の蓋が風に鳴った。
古札は夜になると、神様のもとへ帰る。
燃える火の向こうへ、願いも役目も帰っていくのだと澄江は言っていた。
けれど、帰す日まで急がなくてもいいのかもしれない。
「あのね」
文がポーチを胸元で押さえたまま、少し身を乗り出す。
「御守って、何が違うのかしら。健康とか、交通安全とか。やっぱり、お願いごとで選ぶもの?」
「そういう方も多いです」
貴乃は棚の御守へ目を向けた。
「でも、色や絵柄が好きで選ぶ方もいます。持っていて、少し安心できるものを選ばれる方も」
「好きで選んでもいいのね」
「はい」
文は紫の御守が入ったポーチを撫でた。
「それなら、この人は紫が好きだったのかもしれないわ。似合うって言ったら、照れて怒るでしょうけど」
「きっと、似合います」
貴乃が言うと、文は声を立てずに笑った。
ふと、その視線が返納所の脇に揺れる絵馬へ向かう。
風が通り抜け、木札がからり、と触れ合った。
夕暮れの色に沈む一枚。赤い狐面の印。
文の笑みが、ふっと消えた。
「あら」
貴乃も絵馬を見た。
「その狐面の絵馬」
文は細めた目で、古い木札を見つめている。
「知っているんですか?」
「ええ」
文はポーチを握り直した。
「あれを書いた子を、私は知っているわ」