第六話「狐面の願い」
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
狐面の印の絵馬を書いたのは、若い頃の澄江だった。人手が消えていく怖さから、澄江は「必要なら我慢して」と若者を引き留めてきたという。文化祭で神社の仕事をからかわれた貴乃は、その言葉に中学の顧問を重ね、辞めるつもりで社務所へ向かう。朔也は、頼むことと強いることは別だと静かに告げた。狐面は本音を隠せないという言い伝えのなか、祭礼は雨予報となる。
本文
返納所の脇で、絵馬が風にからりと鳴った。
佐伯文は、狐面の印がある一枚を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。
「書いたのは、澄江さんよ」
「澄江さんが?」
貴乃の声に、文はうなずく。
「ずっと昔。若かったころの澄江さんは、ここを手伝う人が減っていくのが、怖くてたまらなかったんですって」
夕方の光が、絵馬の木目を薄くなぞる。
「必要なら我慢して、って。若い子に言って、引き留めてきたのよ」
貴乃の指が、返納箱の白い縁を握った。
必要なら。
我慢して。
胸の奥で、濡れた校庭の笛が鳴る。
『みんな嫌でもやってるの。あなただけ休むなんて、そんなの無理だから』
『嫌でも行きなさい。部活は遊びじゃないんだから』
息が浅くなった。
文化祭の準備室は、絵の具と段ボールの匂いでむっとしていた。
貴乃が看板用の紙を運んでいると、後ろから笑いを含んだ声が飛んだ。
「また神社? 月城って、部活にも入ってないのに忙しそう」
「巫女さんごっこ、そんなに楽しいの?」
腕の中の紙が、かさりと鳴った。
貴乃は振り返れなかった。
「……仕事だから」
やっと出た声は、紙より軽かった。
「へえ。頼まれたら断れないタイプ?」
笑い声が、背中に刺さる。
貴乃は紙の端を押さえ直した。爪が食い込み、白かった指先がじんと痛む。
放課後、榊森神社への坂道を上りながら、何度も足が止まりそうになった。
辞めよう。
社務所の戸を開けて、もう来られませんと言うだけだ。
雨の匂いを含んだ風が、頬を撫でた。
社務所には朔也がいた。帳面を閉じる音が、静かに響く。
「月城さん」
貴乃は入口で立ち尽くした。
「……私」
喉が詰まる。
「ここも、人が足りないなら。私が、我慢して……」
最後まで言えなかった。
朔也は椅子から立ち上がるでもなく、貴乃をまっすぐ見た。
「頼むことと、強いることは別です」
貴乃の睫毛が震える。
「必要なら、断れないんじゃないですか?」
「断れます」
迷いのない声だった。
「頼まれた側に、選ぶ余地があるなら。それは頼みごとです」
雨雲の影が、畳の上をゆっくり横切る。
「ここにいることを、我慢で決めないでください」
貴乃は唇を噛んだ。
泣くほどのことではない、と言い聞かせても、目の奥が熱くなる。
「……辞めたいって、言っても」
「聞きます」
「休みたいって、言っても」
「聞きます」
朔也は帳面の端を整えた。
「その上で、月城さんがどうしたいかを決めてください」
貴乃は俯いたまま、制服の袖を握った。
社務所の奥では、湊が祭具の札を並べ替えていた。
「今年も、場所が違うんですね」
貴乃が尋ねると、湊は木箱から顔を上げた。
「毎年、少しずつ変えるらしいです」
「どうして?」
「知ってる人しかできない場所にすると、その人がいなくなったとき困るからです」
鈴の紐、提灯の箱、神楽鈴を置く棚。
湊は一つずつ札を確かめながら言った。
「誰か一人が、ずっと無理して残らなくていいように」
貴乃の胸に、その言葉がゆっくり沈んだ。
夕暮れの絵馬掛けで、狐面の印が揺れている。
狐面は、本音を隠せない。
そんな言い伝えを思い出し、貴乃は小さく息を吐いた。
「……私は」
声が途切れる。
けれど、隠したままにするよりは、少しだけ楽だった。
そのとき、社務所の外で澄江の声がした。
「朔也さん、天気予報。祭礼の日は雨ですって」
窓の向こうで、低い雲が杉の梢へ重なっていった。